川西ロータリークラブ 卓話

 卓話者:木下 成会員

台湾を拓いた日本人

現在、日本を取り巻く国際環境は大変厳しいものがあります。なかでも、近隣の中国・韓国については、歴史的背景に起因する領土問題や感情的な縺れから、お互いの意思の疎通を欠き、いまだに好転の見通しが立たない情況です。
同じ近隣国である台湾でも、かって植民地として支配されていたという意識は、中国・韓国と同様に厳しいものがあります。しかし、そうしたなかでも日本に対して、なにか親近感があることも感じられるのです。現在台湾の置かれている国際情況は厳しく、孤立している事も一因なのかもしれません。かっての日本と日本人が台湾のために尽くした良いイメージが、いまだに一部に残っているのです。
以下に、現在に至る台湾の基礎作りに、多くの日本人が関与してきたなかで、特に台湾に尽くした2人の人物を紹介したいと思います。
【鄭 成功】 (てい せいこう 1624-1662)
中国、明朝復興運動の中心人物、漢人鄭芝竜と日本人田川氏の娘との間に、平戸に生まれる。幼少の頃家族と共に中国に渡り明朝に仕えた。明の滅亡後も清に降伏せず、当時台湾を支配していたオランダ人を放逐し、台湾南西部を根拠地として清軍に反抗した。
この時の台湾の総人口は10万人余り、鄭成功の軍人とその家族は約3万人、中国から台湾への初めての集団移住とされる。この人口の急増で食糧の確保が緊急の課題となった。そこで鄭成功がとった対策は、オランダ東インド会社所有の土地「王田」を没収し新政権の「官田」とすると共に、先住民の土地を侵さないことを条件に、大規模な開墾を進め部下に与え土地の私有を認めた。この結果、食糧の生産は急増すると共に、台湾で始めて安定した政権を保ち「開山王」と崇められた。
鄭成功は、南朝の唐王から明室の姓である朱姓を与えられたので、国姓爺(こくせんや)と称されている。近松門左衛門の「国性爺合戦」の和藤内(わとうない)は彼がモデルである。

【八田 與一】 (はった よいち 1886-1942)
石川県河北郡花園村(現・金沢市)で生まれる。東京帝大工学部土木科を卒業、すぐ台湾総督府土木課の技手になった。八田が最初に手がけたのは桃園大圳(とうえんだいしゅう)であった。台湾北西部桃園台地に設けられた灌漑施設である。当時28歳と若かったが、工事を一任され完成に導いた。「水路」と「ため池」を数多く設けたもので、現在でもその光景が新幹線の車窓から見られる。
続いて、台湾南部の広大な平野である嘉南平原(15万ha)の開拓に着目し、壮大な計画を立ち上げた。現地は降雨は年間で集中して偏り、雨水は直に海へ流れ、日照りや干ばつが頻発する、言わば不毛の地であった。
八田は公私共に全力をあげてこの事業に取り組んだ。長年にわたり言語に絶する難工事を乗り越えた結果、ついに巨大な烏山頭(うざんとう)ダムとその導水トンネルを完成させたのである。さらに、並行して嘉南平原に灌漑用水路、嘉南大圳(かなんたいしゅう 延べ1万6千㎞)を網の目のようにめぐらした。
八田の卓抜したところは、単に技術面のみならず、農法の改善(三年輪作制)や田畑の管理徹底など、ソフト面でのインフラの充実を図ったことにある。その結果、台湾南部は綜合的な一大農業地帯に変革を遂げ現在に至っている。
八田は1942年6月五島列島沖で米潜水艦の雷撃で乗船を撃沈され、56歳でその生涯を閉じた。その功績は勿論のこと、人柄、とりわけ職務に対する真摯な姿勢、献身的な努力、植民地でありながらも日本人も台湾人も平等に扱った精神性は、後々まで台湾の人々の心の中に深く残り、語り継がれてきたのである。
蒋介石国民党による独裁が終わり、台湾の民主化が急速に進められたなかで、当時の陳水扁(ちんすいへん)総統が褒章令を出し、改めて八田の功績を称えている。このような経緯を経て、それまで南部に偏っていた彼の名声は、いまや台湾全土規模で知られるようになったのである。烏山頭ダムの湖畔には、戦前に作られた八田技師の銅像が台湾の人々の熱意によって復原された。またその周辺は八田與一記念公園として整備され大切に守られている。毎年5月に行われる慰霊祭には、国民党馬英九(まえいきゅう)現総統も参加して故人を偲んだといわれている。
多くの国では、いまだに過去の日本に対する複雑な感情が残っていることは確かです。我々は、ともすると日本という限られた立場に立って物事を判断し、それが正しいと信じてしまうことが多い。過去に日本並びに日本人が近隣諸国にどのような影響を与え、どう対処してきたか、必ずしも正しく認識されていないのです。
他のためによかれと思う我々の行為が、受け入れる側にとっては如何に難しいことか、よくわきまえて言動しなければならないと思います。
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